HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲2 Kugel

5 それは呪われた名だ


「よせ!」
ハンスがその風を押し返す。耳の奥がキーンとして、すべての音が消えた。それぞれに纏った風が互いを弾き、不協和音を奏でた。
「何するの? どけよ! 裏切り者!」
少年の悪意がハンスを突く。

「裏切り者? どういう意味?」
ハンスはその真意がわからないまま、闇を絡めた。
「民の者ならみんな知ってる。梳名(すくな)家を裏切った者の息子」
「それってどういう……!」
瞬間、空間が激しく音を立てて軋んだ。少年は結城を道連れに山側のドアを開こうとした。ハンスは咄嗟に渦巻く風の障壁を割り込ませ、二人を引き放した。結城は反動で向かい側のドアに叩きつけられ、少年側のドアは拉げてガラスが砕けた。そこから入って来た風と彼らが使っていた風とが混じり合い、外れ掛けたドアがカタカタと鳴った。少年は軽く舌打ちするとブレザーの下の紐に手を掛けた。
(あれは檜山のと同じ……)

「やめろっ!」
ハンスは起爆スイッチが作動する前に少年をドアごと吹き飛ばそうとした。
「この際、あんたでもいいや」
少年がハンスの手首を掴む。瞬間、風圧に耐えられなくなったドアが外れて落下した。そして、そこにいた二人も共にもつれ合うように落ちて行った。

「君……!」
結城は凄まじい風圧に押されながらも這うようにして、何とか解放された入り口に辿り着いた。外を見ると、遥か後方で小さな爆発が起きている。飛ばされた二人に違いなかった。やはり、あの少年が所持していたのは爆発物だったのか。
猛烈な風が車体を巻き上げようとして激しく揺れた。結城はシールドを張って、外から吹きつける風を懸命に防いだ。その時、何処かで携帯のバイブレーターが響いた。見ると、それは洗面所の入り口近くに落ちていた。恐らく、あの二人のどちらかの物に違いない。結城はそれに出てみた。

――ハンスか? 俺だ。処理は済んだか?
ドイツ語で語り掛けて来たそれに、結城もドイツ語で返答した。
「いえ。僕は宮坂高校の教師で、結城という者です」
彼は手短に状況を説明し、相手もすぐにそれを理解し、生徒達の安全を保障するための手を打ってくれると約束した。間もなく、列車は小田原で緊急停車し、乗っていた者達は全員別の列車で移送されることになった。


ハンスは少年と共に富士川の上空に飛ばされた。
「言え! 何故、おまえが母様のことを知っている?」
「答える必要はないね」
少年は笑みを浮かべ、仕込んでいた爆薬の起爆スイッチの紐を勢いよく引いた。瞬間、ハンスは少年に掴まれていた腕を強引に振り切って川に飛び込んだ。あと一瞬遅ければ、彼自身、命はなかったろう。

ハンスは何とか橋桁まで泳ぎ着くと、しばらく咳込んだ。それだけでかなりの体力を消耗した。
水の流れが速い。彼はネクタイを外すと流されないように、自分の手首と橋桁から突きでていた鉄のフックとを結んだ。それから状況を整理しようと考えた。
しかし、爆発のせいで、頭はまだぼうっとしている。耳もよく聞こえない。
「くそっ! 酷いミッションだ。このままもし、耳が聞こえなくなったりしたら、どうするんだ……」

彼は軽く頭を振って水面を見た。それから、腕に着いた血を……。たどると、彼を道連れにしようとしがみついた手首がまだ左腕に取り付いていた。
彼はそれを掴んで引き剥がすと風の力も使って遠くに投げ捨てた。
「……寒い」
彼は半分水に浸かりながら橋桁にしがみ付いた。
やがて、振動が伝わり、新幹線が橋の上を通過して行った。

空は夕闇に染まり、彼の消耗が限界に達した頃、ようやくヘリコプターの救援が来た。
マイケルが彼を発見した時には完全に意識を失っていたが、結んだネクタイのおかげでほとんど水も飲まず流されもせずにそこに留まっていた。
「ハンス!」
マイケルは彼を救助用ロープに括りつけるとヘリコプターに合図した。
「OK! 引き上げるわよ!」
リンダがそれを請け負った。
操縦しているのはルドルフである。すぐにマイケルも上がって来た。

「どうだ?」
「大丈夫。生きてるわ。でも、身体が冷え切ってしまっている。すぐに温めなきゃ……」
リンダはハンスに応急処置を施すと毛布に包んだ。
ヘリコプターはそのまま基地まで飛んで、最寄りの病院へ搬送した。
「お願い。美樹には言わないで……」
途中、ハンスが目を覚まして言った。
「心配させたくないんだ。それに、耳がよく聞こえない……」
「耳が……?」
ルドルフが訊き返す。しかし、ハンスはそこでまた深い眠りに落ちて行った。


「患者は低体温症と突発性難聴の可能性があります」
診察した医者の言葉にルドルフは表情を硬くして言った。
「治りますか?」
「それは、検査してみないと……」
医者はまだ判断できないと言った。
「彼はピアニストなんです。もし聴力が戻らなければ致命的だ。必ず治してください」
真剣な眼差しを向けて言う男に、医者はできるだけの努力をすると約束した。

ルドルフはその晩、病室で彼に付き添うことにした。
意識が戻ったら、詳細な状況を訊き出す必要がある。
「耳か……」
ルドルフは眠っているハンスの寝顔をじっと見つめた。
周囲には消毒薬のにおいが漂っている。

――耳がよく聞こえない

男はそっと寝ている彼の髪を分け、耳を出して眺めた。形のいい耳だと思った。が、普段はそれをほとんど髪で隠している。聞こえ過ぎるからというのが、彼の答えだった。聞こえ過ぎる。それは、単なる音のことではなく、ガイストという記憶の風の声が聞こえてしまうからなのではないかと気が付いたのはつい最近のことだった。亡者の声。それが果たしてどんなものなのか。男には理解できなかった。が、雑踏の中でノイズだらけのレコードを聞くのはさぞかし苦痛だろうと思う。
いつも近くにいながら、彼らは最も遠く張り詰めた綱の上を歩いて来た。
「もし、おまえに苦痛を与えるためだけに日本へ連れて来てしまったのなら……」
柔らかな髪で再び耳を覆うと、聞こえない筈の風の音が、男にも微かに届いたような気がした。それはいったいどんな季節に吹いた風だったのか。男はその断片を掴もうとした。

「……ルビー」
思わずそう呼び掛けた男の手をそっと掴んで彼が言った。
「ハンスだよ」
微かに睫毛が震える。
「いつから起きていた?」
男が訊いた。
「たった今」
静かに目を開けてその顔を見た。
「耳は大丈夫なのか?」
「うん。もう何ともない。ちゃんとあなたの声が聞こえるもの」
「そうか」

そこは小さな空間で、二人の他には誰もいなかった。棚とベッドと丸椅子、それに付き添いのための簡易ベッドが一つあるきりの簡素な部屋だった。窓もドアも、そしてカーテンも閉じている。
「あなたを恨んだりしないよ」
ハンスが言った。
「たとえ、どれほどの苦痛があろうと……。僕は日本に来れてうれしい。美樹に会えたし、それに……」
「だが、おまえにとって偽りの服は重過ぎる。そう言ってたろう?」
「それは本当だよ。でも……」
天井に取り付けられた火災センサーが、見開かれた目のようにじっと彼らを睨んでいる。

この世界では、誰かが常に監視している。少年は3年も前から結城という男を監視していた。そして、その少年はハンスの素性も知っていた。しかも、その情報の中には、彼自身も知らない母のことが言及されていた。制服の下には別の顔が潜んでいる。
「ごっこ遊びは嫌いじゃない。制服を着るのはもうごめんだけどね」
新幹線での出来事を思い出して、ハンスは首を竦めた。
「そうだ。あの制服。ぼろぼろにしちゃった。借り物だったのに……」
「大丈夫。もう手配済みだ」
「ありがとう」
時計の針は午後の11時を回ろうとしていた。彼が欲しがったのでココアとオートミールを与えた。

「宮坂高校の結城という名前の教師。あれは能力者だ。僕の知らないことを知っていた」
スプーンを何度か口に運んだあとでハンスが言った。
「ああ。そいつとは一度話した。おまえの携帯を持っていたからな」
「あれはわざと置いて来たんだ。結城って人のこと、気になったから……」
「その件については飴井と川本が調査している」
「わかった。でも、あとで僕も行っていい?」
スプーンで皿を突きながら彼が言った。
「興味があるのか?」
「彼、音楽をやるんだよ。風を操る時、おもしろいやり方してた」

「日本の能力者か。そういえば、以前、クラウスが言ってたな。日本から優秀な狩人の候補生が二人来ていると……。一度おまえと会わせようかという話もあったんだが……。その一人が結城という名前だったかもしれない」
「そして、あと一人は浅倉って名前だったんじゃない?」
「何故、それを?」
「結城が言ってたんだ。浅倉の手の者かって……。それとも闇の民関係かとも言ってた。ねえ、闇の民って何なの?」
「検索にはヒットしない。非合法の能力者団体らしい」
「あの高校生は結城を3年もマークしていたと言った。ターゲットは結城だった。あの高校生は闇の民のメンバーだった可能性が高い。それが、今回の事件に関与していたと思う?」
「恐らく……」

ハンスは食べ終わった皿を脇に寄せるとココアの缶を開けて一口飲んだ。
「それとね、何故か母様のことを知っていたんだ。あの高校生……。しかも、裏切り者って言ってた。ねえ、何が裏切り者なの? 母様は悪くないよね? あんな子どもに母様の悪口なんて言われたくない! 僕にはさっぱりわからないもの。だから、あいつから訊き出そうとしたのに……。いきなり起爆スイッチを押したんだ。あれじゃ、救いようがなかったよ」
「おまえの母親も能力者だったのか?」
「知らない。でも、たぶん違うと思う。少なくとも、僕とは違う。それに母様の近くにはガイストは存在していなかった」

「では、その辺のことも含めて調査してみよう。この国には闇がある。その闇が政治にも関与している。だが、巧妙に隠されて全容が見えて来ない。俺が思うに、この国の地下にはアメリカをも凌ぐレベル7の原石が隠蔽されている」
「それを掘り起こすの?」
「場合によっては……」
ハンスはふうっと深いため息を漏らした。
「それを僕の仕事にするつもり? なら、僕は降りるよ。そんなのに関わっていたら、命が幾つあっても足りないもの」
「もう、とっくに関わってしまってるんだろう?」
「否応なく……ね」

「なら、逃れようがないじゃないか」
「勝手なことを……。僕は平和に暮らしたいのに……」
「だが、それが日本に招かれた条件だ」
「でも、招いたのは日本人じゃない。意外だったよ。あなたがアメリカの言うことを利くなんて……」
「アメリカか。彼らは確かにアメリカ人だが、戸籍はない。彼らは国から独立を勝ち得たんだ」
「独立を……? じゃあ、彼らは自由なの?」
「そういうことになる」

「じゃあ、僕らは? 何故彼らに協力するの?」
「共に自由を得るために……」
「よくわからない。今は自由じゃないの? だから、仕事をしなきゃならないの?」
「ピアノを弾きたいんじゃなかったのか?」
ハンスは黙ってココアの缶を握り締めた。
「ピアノは……弾けるさ。その気になればいつだってね」
男はそんな彼を見て頷く。
「でも、もう遅いんだ」
ハンスが悲しそうに呟く。
「遅くないさ」

「また、嘘をつくの?」
「……」
「幾つの偽りを重ねれば、いいのさ? 何度生まれ変わったら、本当の僕になれる?」
「そんな必要はない」
男が言った。
「たとえ名前が変わっても、洋服や髪の色が変わったとしても、おまえはおまえさ。外見じゃないんだ。本質で考えろ。おまえが消えて無くなることはない。いつだっておまえはそこに在るんだ」
四角い照明が白く光っている。遠くで何かの合図のように汽笛が鳴った。

「ねえ、コンタクトを外してよ」
男は黙ってそれを外した。
「やっぱり、その方がずっといい。ねえ、初めて会った時のこと覚えてる?」
「ああ」

――わあ! きれい! あなたの目……。まるでエメラルドの海みたい……

「おまえはあの頃と変わっていないな」
「そうかな? あの頃は僕も随分子どもだったと思うよ」

――緑のクーゲル。ねえ、その瞳をぼくにちょうだい!
――欲しいなら、俺を殺して奪うんだな
――ほんとに? あなたが死んだら、それをくれるの?

「あれから、おまえはよく、俺にちょっかいを出して来てたろう?」
「でも、あなたはなかなか死ななかった」
「おまえの腕が未熟だっただけさ」
点滴が終わり掛けていた。最後の数滴が管を伝う。
ルドルフがナースコールを押して当直看護師にそれを告げた。
「今なら、あなたを殺せるよ」
「……」
「でも、今はそうしない」
「何故?」
「死んだらきれいでなくなってしまうって知ったから……。なるべく長く生かしておくことにしたのさ」
ハンスはじっと耳を傾けて、過去に通り過ぎて行った者達を思った。男は黙ってそんな彼を見つめた。
「ところで、何故、あの時連絡をくれなかったの?」
「ネットワークと通信網がダウンしてたんだ」
「それで、お魚さんも手を出せなかったんだね」
「どこまで網を広げているのか。まったく胡散臭い連中だ」

その時、看護師がやって来てドアをノックした。
「どうですか? 気分は」
「もうすっかり大丈夫です」
ハンスが答える。
「じゃあ、もう遅いですから、お休みくださいね。付き添いの方も……」
彼女はきびきびと点滴バッグを回収し、部屋を出て行った。

「明日はここを出られるといいな」
「詳しい検査をしてからだ」
「もうどこも何ともないよ」
「耳は大事だ。念のため、よく調べてもらうんだ」
ハンスは両耳を引っ張って、やっぱり何でもないと言った。
「ちゃんと検査を受けておかないと、美樹も心配するぞ」
「ああ、そうだね。彼女のためなら僕、我慢するよ」


その夜、美樹はジョンからハンス達が関わっている仕事が長引いて、あと2、3日かかりそうだと連絡をもらった。
「2、3日……か」
一人で寝るダブルベッドは広過ぎて、何となく落ち着かない気がした。クリーニング仕立てのシーツもどこかよそよそしい感じだ。たった1カ月前まではそれが当たり前だった一人の夜。以前と同じ自由な時間だというのに、何故か妙に落ち着かない気がした。
「夜って、こんなに暗かったっけ?」
風が強く吹いていた。彼女は戸締りを厳重にした。

遅い時間のニュースで、その日、走行中の新幹線のドアが開くというトラブルがあったが、幸い負傷者はなく、一旦最寄りの駅で停車して振り替え輸送を行ったと報じられた。
が、乗客のうち、二人が行方不明になったことも、うち一人が死亡したことも一切報じられなかった。
もう一つは芸能ニュースで、アメリカから来日し、コンサート中にメンバーの一人が病死するといったアクシデントがあったにも関わらず、無事ツアーを終えたデーモンストライカーのメンバー達が専用機で帰国したことも伝えられた。彼らはそんな不幸なことがあっても、またぜひ日本に来たいと言ってファンを喜ばせた。
それからスポーツの結果と天気予報。
彼女はそれらを見終えるとテレビのスイッチを切った。
「ハンス……。明日は帰って来るかしら?」
彼女は、ベッドサイドのウサギにおやすみと言って、電気を消した。


2日後。ハンスは宮坂高校を訪れた。
まずは鼓(つづみ)校長に挨拶し、結城と平河と面会することになった。
応接室で待っていると、武蔵野がお茶を持って来て彼の前に置いた。
「プ、プリーズ えーと、グリーンティーですが……」
金髪の彼を前にして、彼女は何故か英語と日本語が混ざった文を口にして赤くなった。
「僕、日本語で大丈夫です」
ハンスに言われ、彼女はますます赤面した。
「僕らの調査に協力してもらったこと感謝します。あなたにも風が見えているのですか?」
ハンスが訊いた。

「風というのはわかりませんが、気のようなものなら見えます。剣道をやっておりますので……」
「道理で、どこか普通の人とは違っていると思いました。新幹線でも、大変的確に指示してくれましたし……」
「新幹線? はて、あなたとは今初めてお会いしたと思うのですが……」
「あは。僕ですよ。ほら、運転席まで一緒に行ったじゃないですか。結城先生と……」
「しかし、あの時は確か黒髪の……」
「そう。人間ってちょっとしたことで印象が変わってしまうですよね」
「だが、あの時の生徒は目の色も黒かったし……」
「カラーコンタクトですよ」
「何と……。そうでありましたか。いや、申し訳ない。どうも、私は外国の方と話すのが不慣れなもので……。特に金髪や青い目を見ると上がってしまうのです」
「大丈夫ですよ。僕は半分日本人です」
「ああ、それで日本語がお上手なんですね。ほっとしました」
そこへノックの音がして、結城が入って来た。

「お待たせしました」
結城が席に着くと武蔵野は部屋を出て行った。
「ご無事だったんですね。よかった。改めまして、僕は結城直人と申します」
彼が先に挨拶した。
「結城直人君……か。いい名前です。僕はハンス・D・バウアーと言います。取り合えずはよろしくです」
彼が手を出したので、結城もその手を取って握手した。

「いろいろ聞かせて欲しいんですけど……君の能力や闇の民、それに浅倉って人のことについても……」
ハンスが言った。
「わかりました。でも、ここではちょっと……。プライベートのことですから……」
「そうですね。じゃあ、邪魔が入らない場所を見つけてということで……」
ハンスはそう言うと出されたお茶を口にしたが、苦かったので少し顔を顰めた。

「ところで、ヘル バウアー、僕の方からも少々お尋ねしたいことがあるのですが……」
「何ですか?」
結城は意を決したように言った。
「あなたはピアニストなんですよね?」
「何故そう思うんです?」
ハンスはじっと結城を見つめた。
「僕がドイツにいた時、噂を聞いたのです。決して表舞台に立つことのない伝説のピアニストのことを……。彼は闇のピアニストとして恐れられていた。でも、その演奏を聴いた者は、たちまち彼の虜になってしまう」

「伝説ですよ。そんな者は実在しない」
ハンスが笑う。
「いいえ。この間、あなたと接触した時、僕は肌で感じ、確信しました。あなたこそがその伝説のピアニストであると……」
開放的な窓の向こうには青い海が広がっている。そこは海に面した高台にあった。ハンスが黙っているので、結城はさらに話を続けた。
「僕もピアノを演奏します。学校では音楽を教えているのです。昨年、あなたは一度だけコンサートを開きましたね?」
「……」
「とても信じられませんでした。あなたが公の場に現れるなんて……」
「別に避けてた訳じゃない……」
ハンスが独りごとのように呟く。

「すみません。失礼なことを……。だけど、僕はそのチケットがどうしても欲しかった。でも、席を取ることは叶いませんでした」
二人の間には、一年前に過ぎた筈の音の風が流れていた。二人はしばらくの間、それぞれの風に込められた音を聞いていた。が、唐突にそれを破って結城が言った。
「でも、あろうことか、あなたはそのコンサートで銃撃された」
ハンスが俯く。
「そのニュースを聞いて、僕は絶望しました。僕が求めていた音は永久に届かない所に消え去ってしまったのだと……。それでも、僕は諦め切れずに、録音された物はないかとあちこち探しました。でも、何も残されていなかった。奇跡へ続く道は永遠に閉ざされてしまったのです。僕はどんなに悔やんでも悔やみきれませんでした。同じ時代に生を受けながら、それを聴くことができなかったのは、自分にはその資格がなかったから……。そう思うと酷く悲しかったんです」

「直人……」
「お願いします。たった1度だけでいいんです。ぜひ、あなたのピアノを聴かせてください!」
結城はそう言って何度も頭を下げた。
「そんなに聴きたいですか? 僕のピアノを……」
結城が頷く。
「わかりました。1曲だけなら弾きましょう」
「本当ですか?」
結城の顔が輝く。
「ただし、あなたの命と引き換えに、と言ったら?」
ハンスが皮肉な笑みを浮かべて訊いた。

「構いません」
躊躇せずに結城は答えた。
「最後にあなたの演奏が聴けるのなら本望です」
それを聞いたハンスは呆れて笑い出した。
「ふふふ。それは最高のジョークだ。僕は確かにピアノを弾くけど、その伝説のピアニストじゃないかもしれないのに……」
「いいえ。あなたはルビー・ラズレイン。その人だ」
ハンスは笑うのを止めて彼を見た。
「その名前を口にしてはいけません。それは呪われた名だ」
「わかりました。ヘル バウアー」

「ハンスでいいですよ。僕は君が気に入りました。さあ、ピアノのあるところへ案内してください」
「はい」
結城は初々しい高校生のように返事した。

そこへ再びノックの音がした。
「2年F組の平河です。白神先生から、ここに来るように言われたんですけど……」
「やあ! 平河君、こんにちは」
ハンスが扉を開けて言った。彼は驚いて一歩下がった。
「約束通り、お礼をしに来ました。この間はありがとう。制服は返してもらえましたか?」
「あ、はい。昨夜、飴井さんって人が新しい制服を下さいました」
「それはよかった。これから、直人君にピアノを聞かせる約束なんです。君も一緒にどうですか?」
「あ、はい」
そう言うと平河も付いて来た。

「できれば、他の生徒達にも聴かせてやりたいのですが……」
結城が提案した。が、ハンスはそれを却下した。
「それはまた別のお話です。僕は君の情熱に動かされたのです。今、僕の演奏を聴く権利があるのは君達二人だけです」
ぴしゃりと言われて、結城も反論できなくなった。


音楽室は空いていた。
ハンスはピアノの前に座ると、その蓋を開けた。その瞬間。そこに流れる空気の密度が変化した。
潮風に揺れる光のカーテン。窓からは遥かに群青の海が覗いている。
「君、リクエストは?」
ハンスはそう平河に訊いた。
「おれピアノなら『エリーゼのために』が一番好きなんですけど……」
「OK!」
ハンスは鍵盤に向き直ると軽く目を閉じた。それから、花の蕾がほころぶように口元に微笑を浮かべる。そして、その両手は軽やかな光の中から飛び立つようにふわりと舞って鍵盤に着地した。

瞬間、世界は別の色に染まった。それから、切なく淡い熱情が心を揺らし、高まり続けた。心に広がる海と、そこに訪れる潮の満ち引きの中で、曲はクライマックスを迎え、それからゆっくりと終焉に向かって行った。

聴いていた二人はただ虚ろに時を見つめていた。それはあまりに有名な曲だっただけに背筋に衝撃が走った。本当はこの曲について何も知らなかったのではないか。知っていると思っていたのは単なる驕りに過ぎず、その解釈は間違っていたのではないかと恐ろしくなった。彼の弾く一つ一つの音が心に響き、圧倒的な臨場感が胸に迫った。
「信じられない。これが、あの『エリーゼのために』なんて……」
二人は感動のあまり身体が震え、虚脱状態に陥っていた。

「さてと、直人君は? 何がいいですか?」
ハンスに問われ、彼は弾かれたように答えた。
「作品53。ショパンのポロネーズ第6番を……」
それは結城にとって因縁の曲だった。高校の時、出場する筈だったピアノコンクール本選での課題曲であり、彼の一番好きな曲でもあった。しかし、その本選を彼は欠場した。自分ではかなり仕上がったと自信があった。現に彼は前年度優勝の実力を持っていたのだ。欠場したのはそれなりに理由があった。しかし、出場しなかった分、後悔が残った。だが、世界は彼が知るよりもずっと広い。ここであえてレベルの差を見てみたかった。そうすれば、引きずっていた後悔など何の意味もなかったと吹き飛ばすことができるだろう。そう思ったからだ。

しかし、曲を弾き始めたハンスの姿を見た時、結城は総毛立った。
そして、愚かな願望を抱いたことを恥じ入った。
(これは、レベルの差なんてものじゃない。彼こそがその本質を奏でるものなのだ)
風はオリジナルを越え、遥か頭上を渡る。ここにいるのはもはやハンスでもルビーでもなかった。強いて言うなら作曲者そのもの。ショパン本人が降臨し、このピアノを奏でている。あるいはもっと別の……。

そこはもはや高校の音楽室などではなかった。
天の花園へ通じる窓辺。悠久の時を越えて吹く風に身を任せ、そこで演じられている雄大な騎兵の物語……。それを奏でる者は果たして人であろうか。
流れる涙の道筋を追って、彼らは心の深い場所を旅した。


「今日は本当にありがとうございました」
結城は心から頭を下げて彼を見送った。
「また遊びに来てもいいかな?」
ハンスが言うと彼はにこやかに頷いた。
「喜んで」
校門を出たところで、ハンスはもう一度その学校を振り返って見た。潮風の中で小さなチャペルの十字架が見えた。
「それにしても驚いたな。この学校が美樹の家と同じ街にあったなんて……。これなら、散歩の途中に寄れそうだ」
彼はすっかり機嫌をよくして家路に向かった。


そうして、夕方、彼は家に戻って来た。
「美樹ちゃん、ただいま!」
「ハンス! お帰りなさい」
玄関に来た彼女を抱きしめて彼は頬ずりした。
「あーん、美樹ちゃん、ものすごーく会いたかったです!」
「お仕事は?」
「大したことなかったです。君に会えないことの方が辛かった」
「わたしもよ」
「本当ですか? うれしいな」
彼は再び美樹を抱きしめると何度もキスをした。その日、玄関にはピンクの薔薇が飾られていて、甘い匂いに満たされていた。

それから、二人はリビングでお茶を飲んだ。
「せっかく京都や大阪に行ったのに、お土産がなくてごめんなさい」
ハンスが言った。
「そんなことより、あなたが無事に帰って来てくれることが何よりうれしいのよ」
美樹の言葉にハンスは感激した。
「ああ、美樹。君のためなら何だってしてあげる」

夜、シャワーを浴びて洗面台の前に立った彼は鏡に映った自分を見た。

――本質はいつも変わらない

「ハンスとルビー。二重写しの僕と僕。一つの曲の中で歌う二つのメロディー……」
彼は微笑し、片方だけ外していたブルーのレンズと金色のウィッグを付けた。

「あなたがいないと、ベッドも片側だけ冷たくて……私には少し広過ぎるの」
寝室で美樹が言った。
「大丈夫。今日からまた、二人一緒です。僕が二人分温めてあげる」
そこは水晶のベッド。そこに封じられた魂の弾丸が、互いに傷付けないよう握った手の温もりと共に留め置かれている、深い海の底の白い暗礁だった。

Fin.